阪神大震災から29年になる。というニュースを見て、そんなになるんだなあと、思った。
当時、大学生だった私は、阪神西宮駅に近いマンションに姉と住んでいた。
地震の朝、激しい揺れに布団に潜り込んだが、電灯が落ちてきて、頭を切った。
大した傷ではなかったけど、頭の傷だからか、血がたくさんでた。いろんなものに埋もれていた私を姉がひっぱりだしてくれた。
隣のマンションは一階がつぶれていて、目の前に見える阪神高速が曲がって倒れているのが見えた。どこかのマンションの警報機が鳴り続けていて、不安に思ったのを覚えている。
私は商店街のスーパーでアルバイトをしていたので、勤務先の人が様子を見にきてくれた。
「店が潰れてるんだよ。」そう聞いてショックを受けた。
早朝の時間帯、お肉やお魚部門の方たちはすでに仕事をしていた。亡くなった方もいた。お父さんを亡くされた友人もいた。
まだ携帯が普及していなかった時代だった。家の電話が繋がらないので、広島に住む両親に無事を知らせようと公衆電話に向かった。
崩れた家の前に毛布にくるまって座っている人たちがいた。いろんなものが崩壊していた。その凄まじさに衝撃を受けたのを覚えている。
ついでに頭の傷を見てもらおうと病院に行った。病院はたくさんの人であふれていた。私の傷はたいしたことなかったので、消毒をしてもらっただけだった。
家に帰っても怖かった。商店街にはガスの匂いがしていて、爆発の恐れがあるから避難してくれというアナウンスがされていた。姉と二人で避難所になっていたえびす神社で一夜を過ごした。これから、どうなるんだろうと不安に思っていた。
ガスもなく、この先どうしようと考えていた。水や電気は、いつ頃復旧したのだろう。両親が広島から、在来線を乗り継ぎ、駆けつけてくれた。日本海の方を迂回して、ずっと立っていたと話していた。両親に会ってホッとした。でもどうやって彼らと落ち合ったんだろう。全然覚えていない。
結局、姉の知り合いのお宅にしばらくお世話になることになり、電車が通じている駅まで歩き、大阪にでた。梅田駅でトイレに行き、水が普通に出ているとに衝撃を受けた。この違いは何だろうと不思議な感覚だった。
それから、親戚の家にお世話になったり、大学の合宿所にとまったり、知人の家にお世話になったり、転々とした。大学生なのだから、実家に帰ることもできたのだろうけど、なぜか、西宮にとどまっていた。
よく遊びにでかけた場所が、悲惨な姿になってて、悲しかった。でも、復興も目にできた。
あの時は、自分が辛いと自分のことばかり考えていた。なんと情けないのだろう。
今精神的な学びを重ねて、あの時に私が震災にあったのも意味があったのだと捉えられる。
今ならもっと、思いやりを持って、いろんなことに向き合えるだろう。
震災で、辛さ、悲しみを乗り越えて、人のあたたかさにふれ、人の強さを肌で感じた。
災害は起こらない方がいい。でも、それを通して人は大事なものに気づくことができる。
今、被災地で辛い思いをしている方に、一日でも早く、心おだやかな日が訪れますように。
心からの祈りを捧げたい。